私の体験談
退院について
「退院について」
最初に入院について一寸だけふれさせてください。S.53年2月18日入院、4月20日退院、これで長期にわたる入院はしておりません。突然激しいこの世のさまとは思えない状態でした。
退院して家にいるようになったとき、私は働いておりましたので、おばあさんと家にいる日が続きました。おばあさんは心配して、私に仕事をやめて家にいた方が良くないかということでしたが、私もそばにいると自分までおかしくなってしまいそうなので、自分の仕事に一緒に連れて歩こうと思い(私のいっている会社は、私の妹の家で菓子製造卸問屋でしたので、私の自由もきき都合がよいなと思い)、妹に話してみたら、連れてきてもよいと皆さん協力的でした。さっそく、本人には来年のことも考えて、きまりある生活をさせたいとの思いで、毎日「来年は学校にもどるのだよ」といい聞かせながら通いました。するとだんだん仲間にも慣れて、キャッチボールをやったり、いろいろ面白いと思うようになり、1年続きました。
次の年の4月には、大学に戻るということで、私もついて行き、一週間くらいいました。大学は名古屋なので遠すぎて心配でしたが、3年間毎日夕方になると電話をかけてやり、お互いの安心でした。友達にも恵まれ、無事卒業してくることが出来ました。書道と国語の教職免許をいただき帰ってきたときは、本当にうれしかったです。家に帰ってきてすぐ一人で町内を回って、子供たちに「書道教室を開くので来て下さい」といって歩き、私達もびっくりしました。
そうしていうるうちに、私の友達関係の方から、私立高校の非常勤に誘われ、国語と社会を受け持って、よろこんで4~5 年も続きました。そうしているうち子供の数が足りなくなってきて、非常勤の方から辞めてもらわなければならないということになり、また時を同じくして、習字の方も子供が不足になり、教室を閉じなければならなくなりました。また家にいる状態になりました。
そうしている間に、また私の友人関係の方が来て、今度は市役所に連れていってくれました。2、3の課を回ってから、公民館が一番合っているのではといってくれて、公民館の体育係として15年勤務しました。その間、疲れたというので、1週間くらいの入院は1年に1度くらいの割合でありました。公民館の皆さんがよく面倒をみてくださったおかげと、本当にありがたいことだと思っております。
16年目になろうとしたとき、市長さんが替わってしまい、こんなに長い臨時はないことだというので、即退職をいい渡されました。そのときはずいぶん荒れまして、再発でもしたら大変と、ずいぶん心配しました。いろいろと今の不景気をいい聞かせて、昨年4月から小規模作業所に通っております。その生活に慣れるまでは大変のようです。仕方ありません、静かに見守っている毎日です。
ペンネーム:小野楓月(家族)